三匹が行く

〜金津流石関獅子躍の生まれたところと、今、躍ること〜  ⑥神様を宿して踊る、祈りの踊り             A dance of prayer, performed as a medium for the gods   〈インタビュー3〉

頭を被る事により、私たちは「神様と人間の間に立つ」と言われます。

シシ頭の幕の中で、風を感じた事が今まで三度あります

It is believed that wearing the headgear places us between gods and humans.

Three times in my life, I have felt wind while performing, dressed as a shishi.


 

及川 以前、安部さんが、人間ではないものになる、神様を宿すとお話されているインタビュー映像を拝見しました。クラシック音楽の世界では、演奏者がお客さんに披露する、またお客さんと一緒にその場の空気を作っていく、ということがあります。一方、鹿踊りを踊る際に、神様を宿して人間ではないものになるというのは、どういうお気持ちなのでしょうか。また、見ている人のことはどのように感じられているのでしょうか。

安部 根本的な話をすると、まず“芸能の在り方”というのがあると思います。金津流石関獅子躍は、基本、神事なので、あくまで神様に対しての祈りを込めた踊りであり、見る人がいようがいまいが関係ない、というのが本来の在り方です。明治期になると娯楽の役割も入ってきて、人の前で踊るようになった。そこで、形態や踊り方が変わってきて、観客に見せる踊りを作って、今に至っています。それがいいかどうかは別として、拍手をもらうと踊り手としてはもちろんすごく嬉しいわけで。でも、本来あるべき姿を踊り手が忘れてしまったのでは、この芸能は何のためにあるのですか?という話になる。今年はコロナの影響で何のための芸能なんだと、特に見直すきっかけになりましたね。

千田 神を宿す、についてですが、頭(かしら)を被り、装束をつけ、ササラを背負うことで、ご自身が“依り代(よりしろ)”となるような感覚もあったりするのでしょうか…?

安部 頭(かしら)を被る事により、私たちは「神様と人間の間に立つ」と言われます。私は…信じる信じないはその人次第ですが…、風のない日で、シシ頭の幕の中にも関わらず、風を感じた事が今まで三度あります。金津流石関獅子躍を復活した時の開眼供養、相伝式、供養碑建立の時です。開眼供養ではもう1人も感じたようでした。またある日は、太腿を肉離れした状態で公演に立たねばならず、最悪動かずに、歌と太鼓だけでと考えていたら、始まると痛みは消えて踊る事ができました。まぁ、これはアドレナリンの影響かもしれませんがね。道具をおろした途端に、痛みが酷かったです。各団体にも、色んな逸話や不思議話がありますよ。踊る人にしかわからない感覚なのかもしれません。

供養碑建立之儀の場面 (2011年9月25日)
写真提供 金津流石関獅子躍保存会
金津流石関獅子躍14代供養碑


 

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