三匹が行く

〜金津流石関獅子躍の生まれたところと、今、躍ること〜  ⑤ 人を渡り、山川を越えるシシ達            Shishi that migrate from person to person, across mountains and rivers〈インタビュー2〉

こんな踊りはどうやって生まれたのだろうか?踊ってる最中でも考える。

芸能とは?信仰とは?とか、今でも考えますー

How did a dance like this come about? I wonder about it even while dancing.

What is a performing art? What is faith? I still think about these things.


 

曽和 金津流の祖は犬飼清蔵長明(ながあき)さんという、七北田村の村長でもあった方だということですね。

安部 私の調査で、今まで犬飼清蔵長明が金津流の祖だと言われてきましたけど、実際にはその二代前の犬飼長久(ながひさ)という人が、獅子神楽(ししかぐら)に金津流の「25か条の決まり(金津流獅子躍伝授之目録)」を付けて金津流獅子躍にしたことがわかってきました。その前、犬飼清蔵成久(なりひさ)という人の時に、どうやら踊りが伝承されたみたいだということがわかった。これ、なぜ芸能が武家で伝承されたのかというのは一種の謎ですけど、でもたぶん今うちがやってる形態を見る限りでは、武士の余技(戦のための訓練)でなかったのか、というのが一番納得いくところ。例えば旗差し(甲冑の背中に着ける旗の指物)がササラに見えたりとか、鎧を着ればそれなりの重さ、15kgくらいになるので、重い衣装を着て訓練していた。訓練として芸能を続けたんではないか、というのがもっともらしい話かなぁと思います。それが後々、武士でなく農民に伝わっていき、権威付けと箔を付けるために武士の名前をもって伝授書なんかを貰ったんではないかと。

江刺石関・熊野神社例大祭 (2017年4月29日) 

小岩 石関は藩の境だったから、なんとなく、武士のものを取り入れたとか、稽古するためにというのは、今の金津流の形態、ぴったり揃った足さばきとか、グタッとしないところとか、型ができてるというのがわかるんだけれど、行山流はそこまで型がしっかりしてないんですね。行山流は流派としては古いんだけれど、それぞれの踊りがあって、あまり型が決まっていないというのもあるんだけれど…、金津流が松森で武士の嗜みというか、稽古をするために生まれてきたのか?あるいは藩境、石関の方に行ってからあの形になったのかがわからない。

その前の石関をみていると、そこまで武士というのは、しっかり獅子躍りしなさいよ、というような感じではないような気がするので。山伏神楽も入ってるような気がするから、そこらへんは、行山流から金津流へ変異、変わっていったり、いろんなものがくっついたりしていった中で、誰が何をやってきたのか、というのはあるし、仙台から北に上がって行った時にどうなったのかな、というのは気になりますね。

安部 そうですね。それにしても、私が携わる芸能が200年、300年前からの伝承というのがやはり不思議に思います。こんな踊りはどうやって生まれたのだろうか?踊ってる最中でも考える。昔からそうだったと言われても恐らくそうではないよねとか…。芸能とは?信仰とは?とか、今でも考えます。


調べれば調べるほど謎が増えてきます。まんつ不思議なことだらけ…。

あらゆる角度でみないと点と点が繋がらない…。 

               The more I research, the more mysteries I find. It’s full of inexplicable things.

We have to look at it from every possible angle. Otherwise, we cannot connect the dots.


 

千田 いつの頃までが武家への伝承だったのでしょうか、足軽だけでなく農民にも踊られていたのですよね?

安部 清蔵という名は犬飼家で代々襲名されているもので、最初に出てくる犬飼清蔵重久(しげひさ)が、大阪の陣で、砲術を使って手柄をとったようです。それ以降、犬飼家というのは砲術、弓術とか武道をやっていた。それから江戸時代中期頃、うちの石関獅子躍の書き物に出てくる代の清蔵さん(犬飼清蔵長明)が、武術と銃術とかの他にも芸能をすごくがんばった人で、四十代後半くらいから、北上の相去村の番所、いわゆる仙台藩と盛岡藩の藩境へ足軽頭として赴任したらしいということがわかっています。

その清蔵さんの後から、すっかり武士でなく農民に踊られていたと。金津流の巻物には、清蔵さんの弟子で嘉左衛門(かざえもん)という人が出てくるんですけれど、嘉左衛門はどうやら武士じゃなかった。その人に「獅子躍の一切を伝授しましたよ。何かあったらその人に聞いてくださいよ」とうちの巻物(伝書)に書いてあります。

清蔵さんという人は、なんか人柄が良かったのかわからないですけれど、すごい弟子の数が多かった。弟子もすごくよく働いたと。いわゆるカリスマ的存在で「犬飼清蔵はすごかったんだ」というのが昔の文献に書いてあるんです。

“犬飼清蔵から松森村の嘉左衛門へ伝授された”とある(「金津流獅子躍傳授之目録」より抜粋)

小岩 うちの行山流は、あまり武士は関係していなかったかなと思うんです。舞川の元祖は吉田猪太郎というんですけれど、吉田の家が何やっていたかわかっていないんですね。馬洗渕(まらいぶち)という地名なので、街道沿いで、そこで馬を休ませる場所だったのか、山間の地域で、川に沿ってちょうど山が出張ってるところから山越えして、次の町に向かっていくちょうど峠のところなんですよね。何か商売系をやっていたのか…沿岸まで巻物もっていったりしてますからね。北上川系統から金とかの鉱物か何か持って上がっていったのか。

舞川辺りでは鉄砲打ち(てっぽうぶち)が結構多かったので、火薬を扱えるのとか狩りをすることとかに関係する人たちのネットワークがあったのではないかという気もしてるんですよね。

安部 実際、猟師、山立(やまだち。マタギのことを仙台藩では山立猟師と呼んだ)の繋がりはかなりあったんだろうと思われるし、金山繋がり、山の出稼ぎというのは結構あって、岩手の沿岸と内陸部もやっぱ山関係、金山関係で出稼ぎに来ていて、そこから鹿踊りを教わったという団体もあるのではないかと。山立なんかは、山を歩いて、山から山へと移動していくのでね。

小岩 水戸辺(みとべ)やその近くの、志津川の入谷(いりや)から伝わったという話が大船渡はじめ沿岸地方の鹿踊りの伝承のほとんどなので。そこらへんは修験の山とかも多いし、関係してるんではないかなと思いますけれど。仙台の町中の話と、金津流と行山流の話と、どこでどう接点があって、どこで分かれたのかみたいなのは、もうちょっと今後探って行けたらと思いますね。

安部 調べれば調べるほど謎が増えてきます。まんつ不思議なことだらけ…。調査する際、ピンポイントで調べても分からない事が多いです…。周辺や時代状況とかあらゆる角度でみないと点と点が繋がらない…。


 

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