ようわからんが、ようできた

わからないことを、わからないままに続けること。

「ようわからんが、ようできた

 -コロナ禍のまつり、岐阜県揖斐川町・外津汲の山の講-」

 取材協力:外津汲地区の皆様
 企画者:豊村由香理
 企画メンバー:廣瀬啓(共同企画者・現地コーディネーター)
        杉山慎一郎(映像ディレクター)

2021年1月に執り行われた、岐阜県揖斐川町の外津汲地区の民俗行事「外津汲の山の講」にお邪魔させて頂きました。
山の講とは、年始の1月に山の神様に一年の無事を祈る神事です。文献などは残っておらず、詳しい由来はあまりわかっていないようですが、地区の方々によって継承されています。今回はコロナ禍の影響で、地区の有志の方々によって行われました。
そこでの記録を、動画とレポートとしてまとめました。

■筆者の立場と今回の経緯

私は唄と踊りの芸能が好きで各地を訪ねている東京の会社員です。

都市部で発信・支持されるようなサブカルチャーや商業音楽の中で育ち、ライブハウスやフェスに通うような人間でしたが、生歌生演奏で人々が夜通し熱中する岐阜県の盆踊り「郡上踊り」に行ったのがきっかけで、日本各地に伝えられている民俗芸能に興味を持ちました。

商業文化も伝承文化も、庶民の娯楽という観点でどちらも好きですが、いま圧倒的に惹かれているのは伝承文化の芸能です。唄や踊りを商品として享受するのではなく、自分たちで遊んで楽しんでいくものだという姿勢には敵わないなと感じます。それらのダンスミュージックが生活の中から生まれ、日々の感情や出来事あらゆることも包括し、老若男女も関係なくなって、日常と非日常が曖昧になっていく様子も、形式化・カテゴライズされた都市部の生活の中の文化には、なかなかないものです。そうやって遊んでいる人々をみていると、人間的にもかっこいいなと魅了されます。

私にとって唄や踊りというものは、例えば年代がばらばらの職場の忘年会やスナックで会った知らない人たちとのカラオケなどの、普通ではひとつにはなり得ない誰かと一時でもひとつになって楽しい時間を作ることができるようなツールでもあります。都市的な娯楽はお店や会場の境界線の中での遊びになりますが、お祭りなどの伝承文化の場面ですと、その境界線が曖昧であり、幅が広がっていくようなところが魅力です。

伝承文化の民俗芸能の中でも、特に盆踊りに興味があるのですが、それも盆踊りが社会と自分をつないでくれるツールだと思っているからです。同じ輪の中に入って踊れば、社会的な立場や老若男女の関係がなくなります。唄と踊りというフィクションと、自分の身体やその場所のノンフィクションの曖昧のなかを行き来するからでしょうか。音楽が止んで輪がなくなった途端に、それぞれが日常の社会的立場に戻っていくのも興味深いです。

今回のフィールドワークでは、そんな盆踊りの調査をする予定でした。

岐阜県には「郡上踊り」という多くの踊り子たちを魅了し夜を徹して踊られる盆踊りがあります。最初に見たときは、テープが主流の盆踊りしか知らなかったので、生歌で楽しまれている様子に驚きました。岐阜県内を他にも見ていくと郡上踊り以外にも生歌で伝承される盆踊りがたくさん残っています。

岐阜県揖斐川町の旧久瀬村にも、現在は中止になっている生歌の盆踊りがありました。それを覚えている方がまだご存命なので、聞き取りと踊りと唄を教わる予定でした。しかし取材を約束していた時期は2021年1月の上旬で、日本全国がコロナウイルスによって緊張状態にあり、残念ながらそちらの取材はお断りされました。

久瀬おどりのカセット
2019/08/14「日坂地区での盆踊り練習交流会」揖斐川町日坂地区 功徳山善重寺

それならばと、急遽取材を受け入れてくださったのが旧久瀬村内にある、外津汲地区の「山の講」です。

■久瀬村の外津汲地区について

旧久瀬村(以下、久瀬村と表記)とは、岐阜県の西濃地域に位置し揖斐川が流れ、土地の大部分が山地を占めている中山間部です。市街地の岐阜市へは車で60分ほどかかります。岐阜県内では夏は雨が多く、冬は雪が深いです。北側に行くと中山道や関ヶ原があり、西側の伊吹山を越えると滋賀に入ります。街道や山の峠から、他との交流もあったようで周辺で共通した文化・芸能もみられます。

生業として、かつては山に関する仕事が多かったそうでが、現在では山仕事をする人は減ってきています。取材時に10年ほど前に炭焼きをやっていた最後のかたが現在86歳でいらっしゃいました。仕事や学業を求めるために都心部への人口流出により、過疎化が進んでいる地区です。

久瀬村は小津・西津汲・東津汲・外津汲・樫原・三倉・日坂・乙原の地区で成り立っていますが、平成17年に揖斐川町に合併されました。

久瀬村をはじめとする揖斐川町内には、民俗芸能の「太鼓踊り」が有名で、旧揖斐川町・旧谷汲村・旧春日村・旧坂内村などの各地区で継承されています。こちらの久瀬村でも東津汲地区と三倉地区で継承されています。それ以外の久瀬村の地区にも、太鼓踊りはなくとも他と競うように「芸能」はあったそうで、この外津汲地区には、神楽と呼ばれていた「獅子芝居」があったそうです。現在は高齢化によって途絶えてしまいましたが、衣装や歌本を拝見させていただくことが出来ました。

また、外津汲地区の年間行事については、廣瀬さんによると以下の通りです。

①初詣(正月、海積神社・福圓寺・墓) 
②山の講
③試楽祭(彼岸頃  海積神社) 
④春彼岸会(春彼岸頃 福圓寺)
⑤祈年祭(4月3日前後 海積神社  シガサンと称し昔は神楽をした)
⑥潮干狩り(5月頃 地区でバスを出して知多半島方面に行っていた。今は中止) 
⑦夏季永代経(7月末 福圓寺 ) 
⑧村普請(8月第一週  墓・寺・グランド・石碑・地区駐車場などの清掃)
⑨盂蘭盆会(8月14 15  寺や墓に参る)
⑩秋彼岸会(秋彼岸頃 福圓寺) 
⑪地区運動会(10月第一週 グランドにて運動会、現在中止)
⑫北山道十日講
 (10月5日前後の土日、久瀬藤橋の真宗大谷派寺院8ヵ寺のどこかが会場。八部落で構成される教如上人のお講)
⑬豊年祭(10月中旬 海積神社 昔は神楽をした)
⑭お月見(中旬名月、ススキ・団子・栗・芋などを供える。)
⑮報恩講(11月第四週  金土日 福圓寺  お花立て 華束盛りなどをして準備。合計七座法要が勤まる)
⑯歳末(餅は30日につく。31日に海積神社、寺に供える。大晦日は昼に蕎麦を食し、夜はすき焼の家が多い。0時頃より除夜の鐘)

※民俗芸能(神楽・獅子芝居)、盆踊りは今は廃絶。

■山の講とは

年始の1月に山の神様に一年の無事を祈る神事です。外津汲の山の講は、詳しい由来はあまりわかっていないようですが、地区の方々によって年々継承されています。

山は恵みをもたらし、変化の激しい天気を生み出すからか、女性の神さまと見立てられて信仰されています。山の講では、男性のシンボルと女性のシンボルとお供物が奉られます。
外津汲の方は、山の神さまを笑わせるために作ると話されていました。

近隣の中部地方だけでなく、日本全国で山の神様への信仰は見られます。山の暮らしとの深い関係の中で生まれてきたものだと推定されます。

久瀬村内の他の地区の山の講でもそうですが、外津汲の山の講はいわゆる文化財に指定されているものではありません。地区の年中行事のひとつです。
例年ですと地域内の人々だけでなく親戚などを呼んで盛大に行われ地元の新聞社が取材ることもあるそうですが、部外者が現場に立ち寄ることはあまりないことでしょう。今回はありがたいことに、地元の廣瀬さんの協力と関係式のもと、お邪魔させてくただくことが出来ました。

■当日の様子と山の講の流れ

取材日:2021/1/10(日)
取材地:岐阜県揖斐郡揖斐川町外津汲

午前8時半ごろからお昼まで、準備から奉納までお邪魔させていただきました。
朝から集会所に集まってきて、できる人から作業に入っていきます。私たちが到着したときにはすでに作業が始まっていました。
お昼前までに仕上げて山の木の所まで奉納し、その流れで直会になります。

1/9が山の日であり、山に立ち寄ってはならないと言い伝えられてきたそうですが、最近では山仕事をする人も減り、意識が薄れているそうです。山の講も本来は女人禁制の行事だそうで、準備段階から見学させてもらった女性は恐縮ながら私が初めてのことでしたが、とてもあたたかく受け入れてくださいました。
例年ですと、お正月明けにみんなで集まる寄り合いの場になっているそうです。

2021年度のコロナウイルスの影響による例年との違いです。
・地区の有志の方のみで参加
・裏方で女性が食事の準備をしていたが中止

山の講で作られていたものです。

山の講のシンボルは、作業した場所を移動して山に登って奉りにいきます。

集会場の様子。

縄をなうにも技術があります。年長者は手慣れて作っていきますが、若手はなかなか習得出来ないそうです。

縄ないも全て手作業ではなく一部機械化されているようです。

杉の木から、山の講のシンボルを掘っていきます。

女の神様と男の神様で形が違います。

お酒を飲みがら楽しく作業されていました。私も一杯頂いてしまいました。

鯛と呼ばれる一番大きなしめ縄の作業は、若手を中心に行われます。

造形物には彼らなりのこだわりがあり、長さや位置の調整は細かく行われていました。

完成したら、集会所のあるところから、山の方へ上がっていきます。

山の方からは地区を見晴らせます。

車では行けない道を歩いていきます。

竹筒に入れられるお神酒。

昨年のものが取り外されます。

お飾りを取り付けるのも共同作業です。若手が取り付けて、年長者が位置のチェックなどをされています。

取り付け後に、お神酒の奉納です。一人一人が手を合わせ山の講さんへ拝まれています。例年ですと、ここで火を焚いてイワシを焼いたり、大根を辛く煮込んだ煮物を食べならがお酒を飲んでいたそうです。

奉納後の集会所で腹の足しとして、イワシも焼かれていました。

■他の地区の山の講

後日に廣瀬さんが近隣地区の山の講の様子を見てきて頂きました。

昨年のままで特に何もしていなかったり、簡素化していたりと、外津汲のようにしっかりと作っているところは少なかったようです。
取材を受け入れて頂き、記録させて頂けたことは(しかもコロナ禍の最中)、とても貴重なことでした。

今回の取材は私は「廣瀬さんの友人で祭りが好きな人」という立場で見学させて頂きました。

■今後続く保証はない、山の講の現状

外津汲にはその他にも年間行事はありますがどれも縮小傾向にあり、山の講ももちろんいつまでやっているのかはわからないと話されていました。

メインの縄の材料となる稲の藁は、2020年度からの田んぼの中止によって地区以外の藁を調達されました。
縄をなうにも技術があり、ご高齢の世代の方々は身についているので軽々と縄をなっていきますが、若い世代には覚えていくのはなかなか難しいそうです。

今回の山の講も半数が地元から外の市街地で普段は住んでいる人でした。地元に残る人も少なくなっていきます。

■山の講の、言い伝えと信仰の共通認識

由来について聞いてみたところ、昔は山での仕事がメインだったので、その仕事をしていく上で日々の安全を神さまに祈ることは当然のことだそうです。
山は生活して行く上での豊かな恵みをもたらすとともに、天候が急に変わったり道迷いになったりと恐れのある存在なので女の神さまと見立てられ、その神さまを喜ばせて一年の祈りのために行われる行事が「山の講」だと言うのが共通認識であるようでした。

この外津汲で山の講は、由来や歴史が正確に残っている文献はないため、彼らとしては「よくわからないけれども、毎年みんなでやっているからやっている」という印象でした。近くに山があれば、自然と山の神さまへ拝むでしょという具合です。
大袈裟なんだろうけど、太古の昔から続いていると言う方もいました。神さまと地域は過去からの付き合いのようです。

季節や住まいの中で、神さまという人間以外の「何か」を意識している。
東京で生活していると、それはなかなかみつからないものです。

特定の日にみんなで集まり、お酒も入った和気あいあいとした作業の楽しそうな様子は
故郷も伝統的な祭りも持っていない自分にはわからない領域でもあります。

■あるようでないような、山の講へのこだわり

外津汲の人たちは、すごくさっぱりとしていて行動的で明るく、良い笑顔を沢山されていました。

伝統文化の継承の場では、型の継承はできても精神の継承が難しいと言われます。
型はマニュアル化しやすいので媒体で記録できるけど、心と心を次世代につないでいくことが難しい。

見学させて頂いて、山の講が今に私たちに伝えるものはなんでしょうか。
山の生活の中で育まれてきた、美意識や精神性などでしょうか。

外津汲の山の講でも、型も年々省略されているそうですが、
彼らの前向きさや生き生きとした顔の表情を拝見していると、
心に残る一番純粋なところは残って伝わっているのではないかと思いました。

過疎の進む外津汲では、次の世代が不在でもうできないなら、潔くやめてしまうということです。
山の講も「あと1〜2年でやめるかな」とは、ここ数年毎回出る話題らしいです。
それもなんだか外津汲の人たちらしいとも言えてきます。

しかし、都心育ちの自分には持ちえないものをたくさん持っている彼らには尊敬と羨望を持ち、
これからもわからないものを楽しく作り続けていってほしいと願ってしまいます。

■コロナ禍の山の講はどうだったのか

有志だけの参加になってしまいましたが、でもいつも通りの楽しそうな時間だったのではないでしょうか。
規模を縮小してもそれを忘れさせ普段のようにになってしまう、楽しそうな雰囲気が出ていました。
コロナ禍であろうが、淡々と彼らができる範囲で動くという感じでした。

山の講の実施も、コロナ禍だからこそと言う湧き出るような特別な祈りへの想いでやっている感じもなく、
山の中で生きている自分たちがやらないとなんか気持ち悪いからという感じでした。
静かなお祭りですので、そもそもがほとばしるような熱い熱量は持ち合わせてはいませんでしたが、
それでも呼吸をするように自然体な様子でした。

そして、外津汲の彼らにしか出せない特有の居心地の良いグルーヴもありました。

■普通の人たちが営む「遊び」の領域

関係性の中で作られて脈々と受け継がれてきた山の講には、彼らなりのこだわりや美意識がありました。
彼らの造形品はアート作品でもないしいわゆる民藝でもありませんが、
静かな佇まいに存在感があり、そして表現としての強度の強さがありました。

「ようわからん、でもようできた」

どこから生まれてきて、どこへいくのかもわからない。時間の経過とともに理論も意味もわからなくなっていく。

あるのは共同体として「山の神さまに年の初めにシンボルを作らねばならない」、「毎年やっているからやらねばならない」、「よくわからないけれど、ありがたいもんだろうという」という曖昧な認識です。

その曖昧さが、現代でもそのまま人から人によって残っていることが貴重なことだと思います。
全てわかってしまったら面白くないということも話されていました。

身の回りのものを「わかりやすさ」と言うフレームに収めることで、価値や役割を迫られていきます。

山の講とはその「わかりやすさ」とは関係のない領域での、地域の芸術的な活動でもあるのではないだろうかとも思います。
なんだかよくわからないものを上の世代から引き継いで、全身で感じて受け止める。そして自分たちでも作っていく。
そのなんだかよくわからない世界の中に、自分も一部として取り込まれて入っていくことなのかもしれません。
そこは言葉や理由などの明確なものはなくても成立する世界で、自分の意思や感覚の部分が大きく作用している。

私には「日常」のなかの「よくわからない」部分での「遊び」でもあるようにみえました。

この「遊び」は、文化財登録などの「形式化」することによって消失していくこともあります。
外津汲の山の講は、特に文化財登録はされていないからこその自由であるとも言えます。

誰かに決められた制度の外で遊ぶこと。
評価された「学術的価値」よりも、「地元住民が主体となり能動的に楽しむ価値」というものも大事ではないか。
それも昨今の課題になっている伝統現場の継承問題において、一つのヒントになるのではないかと思います。

今回はたまたま取材させて頂いた機会がありましたが、誰がそこに気づけるのかも今後の継承においての課題となりそうです。

彼らの気取らない日常に接しさせて頂いたことに、ありがたく思います。
表現と意識していないありのままの姿から、生活の中で生まれていく美しさも感じました。

日常が制限されつつあるこの状況下において、そのような貴重な場に立ち会わせて頂いたことに感謝いたします。

謝辞
取材を受け入れて下さった、外津汲地区の皆さま
情報が少ない中で地域との連携を取って頂いた、廣瀬さん
フットワーク軽くご同行頂いた、映像ディレクターの杉山さん

参考文献:
揖斐郡教育会 1924 『揖斐郡誌』
揖斐群久瀬村 1973 『久瀬村誌』
揖斐川町の祭り・踊り調査事業郷土読本編集委員会 2007『郷土読本 揖斐川町の祭りと踊り』
岐阜県教育委員会 1983・1984 『岐阜県の民謡 民謡緊急調査報告書』
揖斐川町教育委員会 2001 『揖斐川町の文化財』
揖斐川町教育委員会 2015 『揖斐川町文化財ガイドマップ』
揖斐川町教育委員会 2018 『揖斐川町の太鼓踊り調査報告書』

福田アジオ・神田より子・新谷尚紀  2006 『精選 日本民俗辞典』吉川弘文館
垣内恵美子 2011『文化財の価値を評価する』水曜社

栁田邦玲雄・松本武・岩岡正博 2016「中部地方の森林組合における山の神の信仰形態の特徴と地域性」『中部森林研究』
俵木悟 2005 「民俗芸能の由来語りの近代性:揖斐郡の太鼓踊りの事例から」『芸能の科学』

追記
と、レポートとして真面目な感じでまとめてしまいました。
それも正直に感じたところではあるのですが、同行された杉山さんがドラム缶でイワシを焼く外津汲の方々の姿を見た「ブラジルみたいだ」と言っていたのが、彼らの雰囲気を一番端的に表しているなと思いました。
私がいつも縛られている価値観なんて気にすることなく、本当に自由に等身大で遊んでいる感じです。
生き生きした雰囲気が、伝わりますかね。私もそうなりたいものです。